キスしといて、そのまま倒れちゃうの?唇にはまだ彼の体温が残っている気がするし、少し腫れているような感覚もあった。だが、さっきまでそんなことをしていた本人は、今ではすっかりソファに倒れ込んでしまった。弥生は細めた目で瑛介の整った顔をじっと見つめた。倒れるなら早く倒れればいいのに、なぜ自分が押した瞬間に倒れるの?弥生は手を伸ばして、彼の頬を軽く叩いた。「もう演技はやめて、起きなさいよ」叩かれても微動だにしない。弥生が彼の額に手を当てると、また熱があることに気づいた。まさかさっきのキスが激しすぎたせいで?彼の熱っぽい表情を思い出した。もし彼が突然倒れなければ、今夜、彼女はきっと彼にやられていたに違いない。弥生は唇を噛みしめ、少しだけ後悔の念を抱いた。なぜあのとき、彼に流されてしまったのだろう。ふと脳裏に由奈の「まだ彼のことが好きなの?」という言葉がよぎり、奈々の顔が瞬時に強張った。もしかして自分は、あの子が言った通り、まだ彼のことを......その瞬間、弥生の表情は冷たくなった。翌朝「おじさん!おじさん!」瑛介は、子供の呼びかける声に目を覚ました。目を開けると、自分の目の前にひなのが覗き込んでいて、小さな手で一生懸命彼を揺さぶっていた。目を覚ますと、ひなのはパッと笑顔を見せた。「おじさん、やっと起きたんだね!」目覚めたときには頭が割れそうに痛くて、気分も最悪だったが、この子の笑顔と柔らかい声を聞くと、少しだけ気分が軽くなった。彼は口元をわずかに緩め、手を伸ばしてひなのの頭を撫でながら、穏やかに言った。「うん、おはよう」その後、彼は手をついて上体を起こすと、向かい側に座っている陽平の姿が目に入った。彼は眉間をつまみながら、部屋の外に視線を向けた。「ママはどこ?」ひなのはすぐに答えた。「ママは朝ごはんを買いに行ったよ!」「朝ごはん?」「うん、おじさんが目を覚ますちょっと前にね!」瑛介が時間を確認すると、まだ早い時間だった。そのとき、ひなのは好奇心に満ちた小動物のように彼を見上げ、首をかしげて問いかけた。「おじさん、どうして昨日の夜、うちで寝てたの? もしかしてママと結婚するの?」まさかそんな質問が飛び出すとは、瑛介と陽平は驚きを隠せなかった。しばらくしてから
瑛介は彼女の白く細い手首を握りしめて言った。「君にすごく優しくするから。欲しいものは何でもあげる。命だって、あげられる。だから......」弥生はまるで彼の言葉が聞こえていないかのように、そっと彼の額に触れた。熱は少し下がってきているのに、どうしてこんなことまで言い出すのだろう。「だめ」冷たく表情を崩さず、アルコールで体を拭きながら、彼女はきっぱりと拒んだ。腕の後ろ側に差し掛かったとき、弥生は少し考え、「腕を上げて、うつ伏せになって。背中も拭くから」と声をかけた。もし彼がまだ意識を失っていれば、彼女が勝手にやっただろう。だが、今は目を覚ましているのだから、自分で動いてほしい。ところが、いくら待っても彼は動かない。「早くして」弥生が急かすと、やっと彼は腕を上げた。彼女は彼がうつ伏せになるのを待っていたのだが、突然、彼の腕が彼女の首に巻きつき、強く引き寄せられた。「待って!」驚いた弥生は手にしていたタオルを落とし、彼の胸元に倒れ込んだ。反応する間もなく、顎をそっと掴まれ、次の瞬間、涼しげな彼の息遣いが彼女に覆いかぶさった。ふいに二人の額が触れ合うほど近づき、距離はほとんどゼロになった。彼の息が熱く頬にかかった。唇と唇が、触れそうで触れない距離まで......息を呑むような沈黙の中、弥生のまつげが微かに震え、耐えられず顔を背けようとしたそのとき、彼は彼女の動きを追うように近づいてきた。その瞬間、ふいに彼女の唇の端が瑛介の唇に触れ、心臓がびくりと跳ね上がった。驚きでわずかに口が開いた瞬間、彼はたまらず後頭部を抱え込み、深く彼女の唇を奪った。「......ん!」弥生は咄嗟に彼を押し返そうとしたが、手が彼の胸に触れたとたん、彼はまるでスイッチが入ったかのように首筋に手を移し、顎を持ち上げさせ、彼女の細く白い首筋を無防備に晒させた。五年前の少女のあどけない香りとは違い、今の弥生は大人の香りを纏っていた。その香りに、彼の瞳はだんだんと濁りを増し、先ほどまでの理性は完全に吹き飛んだ。そんな貪欲なキスに、弥生の心臓は鼓動を速め、耳の奥まで響くほどに打ち鳴った。男女の力の差など、抗えるはずもなく、彼女はついには力尽き、彼の腕に身を預けるしかなかった。二人の呼吸が絡み合う中、弥生
弥生は自分の耳を疑った。前の一言はともかく、後の一言は?「私の部屋で寝る?自分が何を言ってるかわかる?」弥生は呆れたように彼を見つめた。「もしかして、私があの契約書にサインしたからって、私たちの関係が元に戻るとでも思ってる?」「違う」瑛介は目を伏せ、かすれた声で答えた。「ただ、さっき冷水を浴びすぎて、寒いんだ」「寒いなら毛布かぶれば?」そう言って弥生は棚を開け、予備の毛布を出そうとしたが、棚は空っぽだった。念のため、余分に一枚だけ準備しておいた毛布は既に彼に渡していた。もしそれでも足りないというなら......弥生はイライラしながら、自分の布団を取り上げ彼の方へ差し出した。「はい、これで二枚よ。もう午前3時よ。これ以上私の睡眠を邪魔したら、外に放り出すから」瑛介は、彼女が自分のベッドから布団を取ってきたのを見たが、受け取らなかった。「......まあ、このままでいい、ありがとう」そう言うと、彼は背を向け去っていった。もう邪魔しないで!弥生はもう関わる気を失くし、ドアを閉めてベッドに戻り、布団をかぶり目を閉じた。今度こそちゃんと寝ようとしたのに、頭の中には彼の「寒い」という言葉がぐるぐる回り続けた。冷静に考えると、確かに彼は相当長く冷水を浴びていたし、最近体調も良くなかった。そんな中、真冬の冷水は胃に負担をかけるかもしれない。さっきの弱々しい様子を思い出すと、さすがに心が痛んだ。数秒後、弥生はがばっと起き上がった。これが最後......明日彼を送り出したら、もう二度と情けをかけない。弥生はドアを開けてリビングへ向かった。リビングは静まり返っていて、電気も消えていた。スイッチを押すと、ぱっと明るくなったリビングで目にしたのは、ソファの上で小さく丸まる瑛介の姿だった。彼の顔色はさっきよりさらに悪く、額には冷や汗がにじんでいた。弥生が恐る恐る額に触れると、びっくりするほど熱かった。今度こそ、本当に高熱だ。さっきとは違う、病気の熱だ。弥生は肩を軽く揺すったが、反応はなく、意識がぼんやりしている様子だった。慌てて子供用の解熱シートと薬を取り出し、彼の額に貼り、薬を飲ませた。一通り終えると、弥生はぐったり座り込んで深く息を吐いた。目の前の
「私......」「もしかして反論しようとしてる?彼は子供たちの父親だから、家に入れただけだって?」弥生は言葉に詰まった。まさか由奈に、自分がこれから言おうとしたことを先に当てられるとは思わなかった。彼女は唇を引き結び、返事をしなかった。「黙ってるってことは、認めたってこと?子供の父親だからってだけなら、逆に助けるべきじゃなかったんじゃない?前は彼に子供を奪われるのをずっと怖がってたじゃない。もし彼が奈々の罠に本当にかかってたら、彼と奈々は一緒になって、彼女が子供を産んだら、もうあなたのひなのや陽平を狙うことなんてなくなるでしょ?」弥生は相変わらず何も言わなかった。だって由奈の言うことは正しかったから。もし瑛介が奈々の策略にはまっていたら、もう二人の間に子供ができて、きっとこちらの子供たちには執着しなくなっていただろう。でも......じゃあどうしてあのとき、自分は彼を助けたのだろう?最初の行動は、まだまだ納得できる。でも、二度目に彼を家に入れたのは、自分の弱さだった。そのせいで、もし瑛介が何か勘違いをしてしまったなら、それは完全に自分の責任だ。「......もう何も言えない?」由奈はクスクスと笑った。「やっぱり、あなたまだ彼のこと好きなんだよ。そうじゃなきゃ、弘次にはあんなに容赦しなかったでしょ?」「......私、ただ愚痴を聞いてほしかっただけで、私の気持ちを分析してほしかったわけじゃない」と弥生は答えた。「まあまあ、ついでに分析しただけよ。友達として恋愛相談してあげるっていうのも大事でしょ、後悔しないようにね」「後悔って何を?私は後悔していないわ」「本当?じゃあ今すぐ彼を追い出してみなさいよ。まだ間に合うよ、彼の期待を断ち切るなら」「彼の期待なんて、私がちょっと何かしたぐらいで消えると思う?」「......まあ、それもそうね」由奈はため息をついた。「それにしても、五年も経ってるのに彼はまだあなたに夢中だなんて......だったら最初から、なんであんなことしたんだか。それにさ、妊娠のことをSMSで伝えたって話、あれにはほんとびっくりだよ」最初はただ悩みを聞いてもらいたかっただけなのに、話しているうちに恋愛の話題になってしまい、弥生の気持ちはますますかき乱された。「もう寝るわ。またね」
弥生が自分の部屋に戻って、ようやくあたりは静かになった。さっきまで彼を待っている間はうとうとしていたのに、今は彼が回復したというのに、まだ落ち着くことができなかった。弥生はベッドに横たわり、今こそ眠るべき時間なのに、つい今日あった出来事を頭の中で整理し始めていた。瑛介は奈々のところで何か仕掛けられ、それを振り切って自分のところに来た。つまり、彼は奈々との間に何も持ちたくなかったということだ。それは以前なら、とても信じられないことだった。だって彼は、かつて奈々のために自分に離婚を切り出した男だ。そもそも二人は偽装結婚だったとはいえ、当時の彼の奈々への肩入れは特別だった。なのに、どうして奈々と何も起きなかったのか。弥生がそう考えるのには理由があった。もし二人の間に何かあれば、奈々があそこまで彼に対して強硬手段を取る必要はなかったはずだ。二人の関係を整理しようと思ったのに、考えれば考えるほど瑛介のことが分からなくなっていく。普通なら、彼は奈々が好きだったはずだ。それに、彼女は彼の命の恩人でもあった。なのに、二人の間に何もないなんて、あまりに不自然だ。むしろ、偽装結婚だったはずの自分たちの関係のほうが......弥生は寝返りを打ち、頭がますます混乱していくのを感じた。おかしい。まさか、瑛介は若いころ、奈々への感謝の気持ちを「恋愛感情」だと勘違いしていたのだろうか?でも、彼は感謝と愛情の区別もつかないような人間だっただろうか。考えても考えても答えは出ず、弥生はとうとうベッドから起き上がり、静かに真っ暗な窓の外を見つめた。もしかして......今このタイミングで由奈に電話してみようか。そう思い立ち、弥生はスマホを取り出して由奈に国際電話をかけた。時差の関係で、あちらはちょうど昼間だった。電話がつながると、由奈は驚いたように言った。「珍しいじゃない、昼間に電話してくるなんて。そっち、今深夜でしょ?寝てないの?」「......うん」弥生は少し言いよどみながら返事をした。長年の親友である由奈に、その声色が分からないはずもない。「......何かあったの?」「......あのね」弥生はうなずき、今夜起きたことや、ここ最近の出来事をすべて話した。由奈は聞き終
頭の中に残っているのは、ただひとつの疑問だった。この男物の服、一体誰のだ?まさか彼女は最初から自分が来ると予想して準備していた?そんなはずはない。瑛介はわずかな希望を胸に服を着替えたものの、その表情はますます暗く沈んでいった。上着もズボンも、サイズが一回りどころか二回り大きく、着ているとダボダボだ。幸い、服には誰かが着たような匂いはなく、おそらく洗ったばかりなのだろう。だが、それでも、彼女が他の男のために着替えを用意していたという事実に、瑛介の胸の奥では炎がめらめらと燃え上がっていた。弘次......まさか、この服は彼のために?彼女と彼の関係、もうそんな段階なのか?嫉妬の炎は胸の奥で荒れ狂っていた。「瑛介......何してるの? まだ着替えてないの?」弥生の声がドア越しに響き、ようやく瑛介は我に返り、ドアを開けて外へ出た。彼が出てきたのを見て、弥生は一瞥し、すぐに納得した表情を浮かべた。服はやはり大きすぎた。「......まぁ、ちょっと大きいけど、この状況だし仕方ないわね」そう言いながら、弥生は一枚のコートを差し出した。「これ、私のコート。とりあえず羽織って」弥生のコートは、寒い時期に中に厚着しても着られるように大きめを買ったものだった。瑛介が着ると、ちょうどよかった。しかも、そのコートには彼女特有のほのかな香りが漂っていて、呼吸するたびに淡く感じられる。それでも、瑛介の意識は服の正体に向いていた。弥生の後ろをついて歩きながら、彼は低い声で問いかけた。「......この服、誰のために用意してた?」弥生の足がふっと止まり、振り返って彼を見た。「そんなに知りたいの?」瑛介は無言で彼女を見つめた。弥生はしばらく彼の顔を見つめた後、口を開いた。「弘次よ」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の表情がピキリとひび割れたように崩れた。「......なんだって?」「何よ。さっきからいろいろやってたのって、結局この服が弘次用だって聞き出したかったんじゃないの?」「これで満足?」そう言い放つと、弥生は給水機を指した。「そこに行って、自分で水でも飲みなさい。もう手伝わないわよ」「薬の効果、まだ切れてない......」弥生は一瞥し、淡々とした口調で返した